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ねぶた発祥の地「都母村(旧天間林村)」

 私が住む哘から北5kmある上原子(かみはらこ)という集落に、1200年以上も続く上原子剣舞がある。戦の勝利を祝う舞らしい。 

 太鼓、鉦、笛、刀、きね、棒それぞれの舞は、親から子へ代々受け継がれてきたものである。先祖と想いを共有できるので、踊っていると血が湧き上がるらしい。

 その上原子から南東約4kmに、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)の後に征夷大将軍になった文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)と、最後に戦ったといわれている坪(当時は都母(つも)村)という集落がある。

 田村麻呂が807年に創建し、青森県最古といわれる千曳(ちびき)神社が、上原子から東2kmの場所にある。

 田村麻呂が弓の筈で日本中央と彫ったとされる壺の碑(つぼのいしぶみ)は、明治天皇奥州巡幸の折の探索・発掘でも見つからなかったが、昭和24年に千曳の川村種吉氏によって発見された。

 大和朝廷に降伏せず支配下に入っていなかった北東北の三カ村は、都母村(旧天間林村)と薩体(にさてい)村(岩手県北部)と幣伊(へいい)村(二戸市・一戸町)である。

 811年に、文室綿麻呂軍の先陣を務め、朝廷から米百石を与えられていた邑良志閉(おらしべ)村(北秋田)の都留伎(つるぎ)が薩体村の伊加古(いかこ)が宿営する都母村を襲撃する際に、村に踊りながら入って行き、踊り比べといわれる疑似決闘を行い、何日も饗宴を続けたのがねぶたの由来だともいわれている。

 都留伎伊加古を説得し、投降という形で綿麻呂のもとへ連れて行った。そこで平和サミットが行われたが、綿麻呂は意外にも、「敵も味方も追うことはしないから、行きたいものは行って良い」と言い、人々に、税が無く豊かな恵に満ちた土地に住む自由を与えた。

 津軽に移住した人々は感謝の念が深く、永く親朝廷派となり、現代までねぶたを語り継ぐことになった。

 新幹線七戸十和田駅から哘まで車で10分。ねぶた発祥の地をゆったりと散策し、千曳神社や壺の碑を観てからねぶた祭りを観ることをお勧めします。


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