七戸町柏葉公園、老衰したクリの木と対照的な杉とナラの二巨木

七戸町柏葉公園にあるクリの木が県内で二番目に大きいという記事を目にしてからずっと気になっていたので公園に見に行った。

二番目という言葉に勝手に「薬研の巨木よりは小さい木」と想像していたが、実物を見て唖然とした。空洞化どころではなく、「皮が残っている」と言った感じで、自分の力では枝も支えられないほど弱っていた。想像を絶する無残な姿に言葉を失った。

青森県は縄文遺跡郡で世界遺産登録を考えいろいろと取り組んでいる。私は、「縄文→三内丸山遺跡→六本柱→クリの木→七戸町(七戸町柏葉公園クリの木と二ツ森貝塚)→観光客誘致」と考えていたが、老衰したクリの木を見てその考えを捨てた。

逆に以外だったのが、老衰したクリの木とは対照的に、「そびえたつ」とでも表現したくなるほどの杉の木とナラの木が同公園内にあることだ。

地元にある公園で、今までも何度か来たことがあったのに、巨木があることが全く記憶になかった。いかに今まで木に対して関心がなかったかということだと思う。木に関心を持つようになったのは三内丸山六本柱のクリの木が1本1120万円もするということを知ってからである。

100125七戸町柏葉公園クリの木3
▲枝を多くの支柱で支えられているクリの木

100125七戸町柏葉公園クリの木2
▲南側から見た様子

100125七戸町柏葉公園クリの木1
▲処置された痕が残っている

100125柏葉公園看板後ろの木
▲公園入口にある看板と十分大きなナラの木

100125七戸城跡看板
▲国指定史跡七戸城跡の看板

100125近世の七戸代官所
▲看板を拡大

100125七戸町役場七戸庁舎
▲看板付近から見た七戸町役場七戸庁舎(連絡通路がある)

100125柏葉公園二巨木
▲私の愛車(トヨタノア)と二巨木(木の太さが良くわかる)

100125柏葉公園二巨木の根元
▲大地を鷲づかみしているように見える根元

100125柏葉公園二巨木西1 100125柏葉公園二巨木東1 
▲二巨木のスギ(左側=西側)とナラ?(東側=東側)

100125柏葉公園二巨木西2 100125柏葉公園二巨木東2
▲下から見上げた二巨木の様子


 
薬研の大クリも大したものだが、「真っ直ぐ」に伸びているという点では、七戸町柏葉公園のこの二巨木の方に軍配が上がるような気がする。

杉の木が真っ直ぐに伸びるのは、曲がらないように密植し、光を求めて上へ上へと伸びるようにし、時期を見て間伐し太くも育つようにしていると聞いたことがある。七戸城をこの場所に造る際に、伐採されずに残された木で、その時点である程度真っ直ぐに育っていたのかも知れない。その後この二巨木は大事に手入れされてきたのかも知れない。いずれにしても、真っ直ぐに伸びている木は見ていて気持ちがいい。真っ直ぐ育つかどうかは育て方にもよると思うが、木の特性にもよるところもあるのではないかと思う。

三内丸山六本柱はDNA鑑定によってクリの木だと判明したそうだが、復元に使用する木材はスギの木ナラの木で済ませようと思ったら、青森県内でも調達可能だったのではないかと思う。
 ロシアのクリの木がそれ程高くないのであればクリの木の方が良いと思うが、1本1120万円もする位なら、私が知事であれば、妥協してスギの木かナラの木で復元するという選択肢も捨てなかったと思う。偽装にならないように「当時はクリの木で建てられたと推測されていますが、今回は○○の木で復元しました」と表記して済ませても良かったのではないか?
 どうせ皮を剝けば、どの木も似たように見えるのだから。

参照:樹皮図鑑(皮を剥けば同じに見える木も樹皮は個性的)

 


津軽為信:弘前城、南部高信:石川城、小山内讃岐満安:和徳城

お市

慶長六年(1601)没・34歳

父と夫の敵への恨みを捨てて死んでいった

 

◆為信はかつて南部一族だった

 

 戦国時代、いまの青森県全域は三戸南部氏が支配し、津軽地方の拠点には南部氏の一族や家人が派遣されていた。この南部に反逆、津軽一統の旗をかかげ、津軽の地をかすめとった津軽(当時は大浦)為信もまた南部の一族だったという。

 元亀二年(一五七一)五月五日、二十二歳の為信はまず郡代、南部高信の石川城(弘前市石川)を奇襲して高信とその妻子を自害に追いこみ、もう一つの南部氏の要城、和徳城(同市和徳)の小山内讃岐満安をもその日のうちに攻めて滅ぼした。この讃岐の娘をお市といい、この時四歳であった。やがてお市は田舎館城主、千徳千徳掃部介(かもんのすけ)政武に嫁いでいた。

 為信を南部側の記録は「性狡黠(こうかつ)」とののしり、津軽側記録は「四民に仁愛を施しける」とする。為信は津軽における南部の非政につのる不満をうまくまとめ、在地の武士を次々と味方につけていった。そしてお市の父を和徳城に殺して十四年後の天正十三年五月、為信は三千の兵をもって、田舎館城を攻めた。

 城主、掃部政武は他城が為信になびく中、南部への義を守った。妻お市の父を殺した為信への許しがたい思い、それは妻への愛情といえるものもあっただろう。わずか三百三十の城兵は為信の軍を迎えて決死で戦うが、利はなく落城、十七歳のお市は逃れて山里に隠れ住んだ。為信はこの田舎館城攻略をもって津軽全城を征服した。

 それから十七年の年月が流れる。為信は津軽藩祖となり、関々原でも徳川に味方、領上を安堵され、慶長六年(一六〇一)三月、津軽に戻った為信は居城、堀越城下の清水森に縦十五間(二七叩鵬七間二二・六叩砲虜彙鼎鬚發Δ院∋擁に垣をめぐらせて斎場とし、石川・和徳城以来の敵昧方の区別なく、戦死者の霊を弔う大供養を十日間にわたり営んだ。

 その四目目、一人の侍女をつれな上品な女人が、仏前に進み出て焼香、手をあわせた後に、懐から一巻の巻物をとり出すと、見守る群衆を前に、朗々と読みあげた。

 

◆祭壇前、懐剣で胸を突く

 

 「それ、義によって軽きものは武士の命、情によって捨てやすきは婦人の身なり。わが夫、すでに武名を重んじ、すみやかに戦場一葉の露と身をなし給う。惜しいかな。この人、世にありし程は、武士の道、いささか迷い給うことなし。さるによりてその戦功またいくばくぞや。伝え聞きし高麗、唐の勇士にも恥じず、勇めるときは工力の刃のなかへも、われ先に行かんことを慰しとせず。またその情の勇なることは、物のあわれを、敷島や大和島根の道芝の露に宿れる月影の、はかなき世のありさまを、よく知り給えしぞかし。

 われまた、その妻となりて、その人の座の片端に、その身をおき年月を経ること、すでに三年になり、起き臥しをともにして、人の情深き淵に沈みし身なれども、別れしその日よりは、ただ浮かべるものは涙のみなり。せめて亡き霊の、菩提ともならんかしと思い、その年より十年余り七とせに満ちぬるまで、人目枯れにし山かげに、この身を隠し、朝な夕な、その亡き跡をとぶらうといえども、さらに答うる事なし。

 亡き魂よあわれと思え添寝せし 三とせの

 夢のさめもやらぬを

 その年のその目にやがて伴いて 行きしむ

 をしるやしらずや

 御身の仇ならんとせし者までも、かく御法の網にもらし給わで、救いとらんと誓い給う御心をば、亡き霊もいかぽかり御悦び尊み奉らんかし。わが慕うその面影は、たまの軒端にたなびくなる紫の雲にほの見ゆる心地こそすれ、誠に君が情をよすがとして、われもつれ行き給えや。

 伴いてわれも行きなんまてしばし 死虫の

 山路の道しるべせよ

 かかるつたなき筆の跡は、恥を書き残すに似たれども、誰に向かいて何事をいいおかんよりもあらされば、ありがたき御芳情によりて、夫の幽霊もさぞ成仏にいたりなんと、いく尊くありがたく、御心を鄙びたる一巻に残すのみ。 慶長六歳三月十日 田舎館掃部妻積る年三十四 敬白」

 女人は静かに巻物を戻すと、それを祭壇に捧げ、目を閉じて手をあわせた。そして素早く用意の懐剣を抜くと、ためらうことなく胸に突き、祭壇にくずおれた。主人におくれまいと侍女もまた短刀で胸を突こうとしたが、見ていた群衆に押さえこまれた。

 いうまでもなく皆の見守る中で死んだ女人はお市。父と夫を奪った為信への恨みを捨て、むしろ、敵をも弔う為信の心を多として、戦国の女、お市は十七年間、夫への想いを温め続けて、死んで行ったのである。

 

◆まず最初に城下町作りから

 

 弘前城津軽初代為信が図面をつくり、二代信牧(枚)(のぶひら)が慶長十六年(一六一二)に築いた平城。為信は三戸南部氏が支配した津軽の諸城を攻略して津軽を統一し、天正十八年(一五九〇)小田原において秀吉から領地安堵の失印状を得た。

 為信ははじめ弘前城から二舛曚匹諒疹襪任△詼抉枉襪砲△辰燭、二度も家来の謀反にあった。二度目の謀反では本丸まで斬り込まれて、長男の信建は逃げ場を失い、女中に助けられ長持ちの中に隠れてやっと助かった。このことから為信は堀越城を嫌い新城の築城に乗り出す。

 弘前城で面白いのは、為信は城を作る地をあけておいて、慶長九年からまず城下町づくりを始めたこと。ところが人が集まらず、二年後、家材と米味噌を無償で支給して町人を集めたが、同十二年に為信は死んだ。その子、信牧が、父の遺志を継ぎ、同十五年から一日八千五百人の百姓、下級武士を動員してわずか二年で城を築いた。

 城は東西六一五叩南北九五〇辰諒疹襪粘簗收遒論沼Σ爾鯲れ、石垣は本丸のみ。天守閣は五層だった。ところがこの天守閣のシャチに落雷があり、三階にあった時を告げる鐘が衝撃で落下、床を破り二階にあった火薬が爆発炎上した。幕府は天守再建を認めなかったため、総物見櫓だといって幕府をだまし、隅櫓にしては大きく、天守閣と呼ぶにはやや小さい、現存する。“天守閣”を文化七年(一八一〇)に建てた。

 なお四代信政の時、洪水に悩み、岩木川を城から遠ざけ、城内の家臣の屋敷も城外に移した。

大浦為信津軽統一までの歩み


南部家の第26第後継者選定・紛争と九戸城(九戸政實)の落城

三戸城跡案内図1

三戸城跡案内図2

三戸城跡案内図3

三戸城跡案内図4

三戸城跡案内図5

名久井岳から見た三戸城

●八幡宮⇒新館神社の由緒
 当神社の創建は正治元年(1199年)といわれています。
 
南部藩の祖南部三郎光行が藤原征伐の功により南部地方を鎌倉幕府から許され、その三男南部三郎朝清七戸へ配置した。
 
その朝清が甲州南部庄から八幡宮を此の地に座したのが当神社の創祀とされています。

●七戸城跡の歴史的役割

七戸城の性格としては北方に位置する安藤氏の攻撃に対しての南部氏北方防衛拠点としての役割が強いものと考えられます。

 そして、室町時代初期(15世紀初頭段階)において、七戸南部氏は、三戸南部氏根城南部氏と同等の権力をもった位置にあったが、康正2年(1456年)の蝸崎蔵人の乱により、七戸は落とされ、その後七戸南部氏は急激に低下していったのではないか、と考えられています。

●七戸城東門の説明

 この場所に建立された「七戸城東門」は文献資料に基づきこの場所に復元整備されました。

☆復元整備の根拠のひとつは七戸町に所存する青岩寺の過去帳に天正十年(1582年)まで旧螺口(きらぐち)に青岩寺があったということが記載されており、「旧螺口」は現在の「貝の口」にあたるものと推測されること。

☆もう一つの根拠は、この場所は七戸城を守るという観点からみると非常に弱い部分にあたり、この場所から簡単に城主が居た場所{北の館曲輪}(きただてくるわ)に攻撃されやすく、そのようなことから寺院などの施設を設け、七戸城に侵入してくる敵を防ぐ役割も果たしていたと考えられる。

 以上のような歴史的及び城の構造的な理由から、ここに門と塀の復元整備を行いました。

●根城と南部氏                                                

 根城は、建武元年(1334年)に南部師行によって築城されたと伝えられます。南部氏は、甲斐国(現在の山梨県南部町。身延町)に拠点を置いた有力な鎌倉御家人であり、南北朝時代には北畠顕家に従い奥州における南朝方の中心的な存在として活躍し、その勢力は現在の秋田県比内、鹿角地方、岩手県閉伊、遠野地方にまで及びました。

 南部師行は延元三年(1338年)、北畠顕家と共に泉州石津(堺市)で討ち死にしますが、その後も根城は師行の子孫らによって守られ、南部氏の居城として数々の歴史や伝説の舞台となりました。

 秀吉の時代、根城南部氏は同族の盛岡南部氏の家臣格となり、やがて寛永四年(1627年)、遠野へ領地替えになります。

 これにより、根城は城としての役割を終えました。この間約300年、ただの一度も落城することのなかった名城です。

 根城は、昭和16年に国指定史跡となり、平成6年には史跡公園として整備されました。また、平成18年には日本でも数少ない中世城郭の特徴をよく伝える城郭配置と、長年にわたる復元整備。保存活動が評価され、日本100名城に選ばれました。


●三戸城

 三戸城は馬渕川と熊原川との合流点に位置し標高約130m、広さ40万屐複隠伊坪)築城年代は永禄年間(1558〜70年)24代南部晴政時代である。

 26代南部信直は天正18年(1590年)小田原に参陣、その功により豊臣秀吉より南部七郡(糠部、岩手、紫波、稗貫、和賀、閉伊、鹿角)領有の公認を受け、これにより南部氏の近世の大名としての基礎は万全となった。
 南方に領土が広がり、三戸の位置は領内中央でなくなり慶長2年(1597年)盛岡に築城、次移住、寛永10年(1663年)盛岡城だけを居城と定め、三戸城は御古城と呼ばれ、城代の統治と代わった。

九戸政實首級清めの池

▲九戸政實首級清めの池と九ノ戸神社

(七戸七代城主家国が斬首された地)

 九戸城(現二戸市福岡城)城主左近将監政實は、南部藩随一の豪者と呼ばれた勇将であった。

 南部家(盛岡)は、第二十六代の後継者選定について二派に分かれて紛争あり、後継者は田子九即信直に決定したが、九戸政實との反目が深刻化した。後事を心配した信直は前田利家を介し、秀吉に忠誠を誓い、その代償として道直は領主としての身分が保障された。道直に反逆した政實は結局秀吉麾下の大軍と戦うことになった、

 総大将は三好中納言秀次、討手の大将蒲生氏郷堀尾吉晴浅野長政井伊直政等指揮する六万五千の兵力、迎え撃つは手兵僅かに五千、天険の要害に依って反撃、一ケ月対峙するも変化なく、狭隘なる土地に大軍を擁し、秋も深まる事、早期終戦を図る蒲生氏郷は謀略を以て政實以下八名をおびき出し、捕まえ遂に九戸城は落城した。

 政實一行は囚人用の竹籠に乗せられ、天正十九年上野、現在は廃寺)に宿泊、秀次に報告の後、九月二十日この地で斬首され、この泉で首級を洗い、遺骸を埋めたところに塚を立てた。

 明治初年頃遠田群の行者、某、九戸政實の霊夢により訪ね来たり、荒れ果てた草むらの中より塚を見つけ碑を立て、供養したのが九ノ戸神社である。

 特に頭部(目・鼻・耳・口)の疾病に霊験あり、地域住民の深い信仰を受けている。

 

              平成十三年三月 栗駒町教育委員会


■九戸政実(
くのへまさざね)の乱

 陸奥国の南部家では、当主の晴政・晴継の相次ぐ死によって一族の石川(南部)信直が第26代に迎えられたが、同じ一族の九戸政実は不満を抱いていた。政実の弟・実親は晴政の二女を娶って南部一族として処遇されていたが、跡目相続の政争に敗れたためである。
 その内紛が解決されないまま、羽柴秀吉による奥州仕置きという事態になった。南部を名乗るようになった信直は秀吉の傘下に入ったが、政実はこれに属さず、秀吉の軍勢が撤収するとともに、公然と信直に対する謀叛にたちあがったのである。
 天正19年(1591)3月、政実は櫛引清長・七戸家国・久慈備前守らを誘って、自分たちに味方をしない諸氏の城を攻めはじめた。 
 これに対し信直も北・名久井・野田・浄法寺氏らの協力を得て防戦につとめたが、政実らの勢力が強大化し、ついに信直は嫡子・利直と重臣の北信愛の2人を上洛させ、秀吉に援軍を要請したのである。
 秀吉にしてみれば、ようやく全国統一を成し遂げたばかりのところに反乱軍の蜂起ということになり、奥州再仕置きの軍を向けることになった。
 前年(1590)秋より葛西氏・大崎氏の遺臣たちも蜂起しており、いわゆる「葛西・大崎の乱」を起こしていたからである。
 秀吉は甥の豊臣秀次を総大将に、九戸政実討伐の大将として蒲生氏郷、葛西・大崎の乱討伐の大将として伊達政宗を任命した。氏郷が会津若松を出発したのは7月24日、軍勢は3万であった。
 8月7日頃には浅野長政の軍と合流して二本松から北進を開始し、23日に和賀に着陣。このあたりから九戸勢との戦いが始まり、9月1日には姉帯城および根反城を落とし、その勢いで九戸城の包囲にかかったのである。
 この包囲軍には、大谷吉継の配下として出羽国の諸将も九戸城攻めに動員されており、小野寺義道戸沢盛安秋田実季らがこれに加わっていた。
 またそれだけでなく、津軽為信松前慶広も北から南下して包囲網に加わり、そのため、九戸城の5千の城兵は、6万もの大軍に包囲されることになってしまったのである。
 攻城軍は火矢や鉄砲、さらには松前勢のようにアイヌの毒矢を使って攻撃し、ついに9月4日、九戸氏に所縁の深い薩天和尚の取り成しによって降伏することとなった。
 その日、政実・櫛引清長は剃髪して法衣に身を包んで降り、城を出て本陣の三迫に送られ、そこで百五十人余の主だった城兵と共に斬首されたのである。
 一方、大将の降伏で命を助けられると思っていた九戸城の城兵たちは二の丸に追い籠められ、そこに火をかけられて非戦闘員の婦女子に至るまで皆殺しにされてしまった。
 この合戦ののち、信直には和賀・稗貫・志和の3郡が加増された。


豊臣秀吉の北条氏攻略と関東以北諸大名への仕置「城破却」

天正18年(1590)の豊臣秀古の北条氏攻略は、関東以北の諸大名に対する「置目(おきめ)」(仕置き)を目的として行われたものであり、その成功はまた天下統一の実現を意味するものでした。

 秀吉の「奥羽仕置」の考え方の典型がよく示されたものとして、南部信直への朱印状と、出羽の戸沢九郎あての朱印状があげられます。信直への朱印状の第4項には、信直の居城は一城(三戸城)のみ残し、家臣の城はすべて破却せよ。また、その妻子は三戸へ移住せよという命令です。

 しかし、天正20年(1592)6月の「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上(なんぶだいぜんのだいぶぶんこくのうちしょじょうはきゃくともかきあげ)」によると、南部領内48城のうち12城を残し他の36城を破却したとあります。原則は一国一城でしたが、南部領内では12城が残されています。

天正18年の「奥羽仕置」において、一国一城制が実行できなかった理由は、出羽仙北の戸沢領内での一揆の続発、九戸政実(くのへまさざね)の乱などによるもので南部領内での城破却は天正19年(1591)9月から、天正20年6月の間に実施されたと考えられます。当時、「八戸城」と呼ばれた根城では、防備土重要な門、橋、柵などを破壊・主要な堀を埋め立てる・本丸縁辺部の柵を立てた土塁を崩す・本丸への登り口の道をつけ替えたりしています。

 しかし、この破却の後も、ここを屋敷地として住み続けていたことは根城跡の発掘調査でも明らかです。

 すなわち、城の破却といっても、城主を追い出し、城跡を土塊の山にしてしまうような、徹底した廃城を意味したのではありませんでした。まずは城の軍事的な機能を破壊し、もとの領主からかつての「自立した城主」という誇りと体面を剥ぎ取るのが狙いであったとも言えそうです。 根城以外にも、福島県郡山市の木村館(きむらだて)跡の発掘調査では、外からよく見える虎口(こぐち)(出入口施設)は徹底的に破壊されている一方、外からよく見えない部分の十塁などは、かなり元の姿を留めているということが明らかになっています。

▼天正20年南部領内の城割り
天正20年南部領内の城割り

▼豊臣秀吉の城破却令によって整理された南部領内の諸城
豊臣秀吉の城破却令によって整理された南部領内の諸城


龍泉山青岩寺、浄土宗・青山浄晃住職、由緒ある山門と仁王さま 

▼七戸城門だった山門と青山浄晃住職
七戸城門だった山門と青山浄晃住職 

 青岩寺といえば、だれでも山門の「仁王さまを思い浮かべる。七戸町のど真ん中にある寺で、あの恐ろしい顔が『悪いことをすると踏みつふすぞ』と言っているようで、長いこと町内の子供たちから怖がられているからである。この仁王を安置している龍泉山青岩寺の山門は、実はかつての七戸城の城門をここに移したものである。明治維新政府の神仏分岐で上北町の新館神社(藩の祈願所)の旧別当家の奥深く隠してあったものを運んできたものである。「城門」のこの山門は、当時、天井がもっと高くてそこにつり鐘がおかれてあった。この山門をくぐるとすぐ左の墓地の入り口に巨大な老木イチョウが茂っている。山門とこのイチョウは、七戸を代表する風物詩的存在である。

 「おろし置く鐘にいてふの落花かな」(大塚甲山「笛の後」より)

 このイチョウの大木の陰に「小野政之助」の墓がある。碑文は「小野政之助は旧津軽藩士なり。戊申の役にその先鋒となり、来りて戦い野辺地で銃創をこうむり、ために南部落兵に捕はれたが、態度毅(き)然、首をはねることを乞う。その義勇に感じ、医をつかわして篤(あつ)くせしもついに没した。実に十一月四日なり云々」

 昭和三十八年に現住織青山浄晃師の奔走で政之助の遺族を招いて盛大に百年忌を催した。

 この寺は、まから約四百年前の天正十年(一五八二年)六月の開基で法蓮社、実誉正人円良大和尚が開山したもの。天保九年(一八三八年)三月十六日、寺が炎上し、一切が焼失しているが、安政二年(一八五五年)正月再建された。寺院の「古図面」がどういうわけか門徒宗の信者(七戸には門徒宗の寺はない)でかつて野辺地港から千石船を出した舟木屋の山本家(七戸町下町)から先年発見されている。今のつり鐘は、先年新造したものであるが、昔の鐘は大正中期ごろまで町内に「時」を告げたもので、その音は遠く六ヶ所村まで聞こえたという名鐘であった。この鐘は太平洋戦争で供出された。明治初年までは門池民光、明治五年欠畑貞山、同三十二年青山智成と続いて現在の青山浄晃住職は三十八世。

 この智成帥の長男が、青森県歌壇草創期に活躍した歌人青山哀囚(勝信)である。古い法燈のもとに育ち、そこはかとなき寺院の古風が哀囚の短歌に貫かれている。

 「しろかねの針のようなる虫が棲(す)み、秋をつらぬく如きさみしさ」

 近代思想の洗礼を受けた哀囚が、伝統の法燈を継ぐべきか継がざるべきか悩んだ明治四十四年ころのわずか十七、八歳の時の歌である。

 哀囚に守られて育った弟の智淵が寺を継ぎ、この智淵和尚が自らのたくはつで集めた浄財でつくった明照学園は、七戸町の幼稚園教育の始まりとなった。また浄晃住職も青少年のために安全でしかも規律と秩序のある「青少年の宿舎」ユースホステルを昭和三十五年に開設。全国の青少年らの利用者はこれまでに約五千余人を数え、民話や伝説に接し交歓し合っている。この寺も昭和四十七年、三千万円をかけて改装した。

▼小野政之助の墓
小野政之助の墓

▼青岩寺の説明(七戸町教育委員会)
青岩寺

▼青岩寺の説明
青岩寺の説明


復元した七戸城東門の位置をパースと写真と住宅地図で確認

▼七戸城跡の本丸二の丸の位置(七戸城跡縄張りパースより
七戸城跡本丸と二の丸
▼上空から撮影した画像(グーグルアースより)
七戸城址周辺グーグルアース
▼現在の住宅地図(ゼンリン住宅地図より)
七戸城址周辺住宅地図
▼当時の住宅地図(町民が提供してくれた資料より)
七戸城址周辺地図当時
質問:「城の名称は元々『七戸城』だったのか? 」
回答:「廃藩置県を機に柏葉城から七戸城に改名された。」
 【廃藩置県】
  明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統
  治を中央管下の府と県に一元化した行政改革。


▼七戸城東門が復元された場所(赤線
七戸城址周辺グーグルアース 加工

▼七戸城周辺住民の変遷(北から南の順)
藤島元八  → 藤島モミ、(藤島アパート)
∪虱婀之助 → 駒嶺
5彿欷頁珪勝、 堀端、葛西、照井 
ざき地?   → 盛田広
七戸城入口?
四戸六之助 → 西田京子
盛田善右エ門 → 盛田稔(名誉町民)
孝伯     → 猛夫
千葉才蔵    → 七戸町役場七戸庁舎
中原平左エ門 → 七戸町役場七戸庁舎
浦田寛平    → (田村、雪田)?、
野辺地民田  → (成田、盛田、岡田)?


史跡七戸城跡整備基本計画策定報告書

▼史跡七戸城跡整備基本計画策定報告書 
史跡七戸城跡整備基本計画策定報告書1
▼P.46
史跡七戸城跡整備基本計画策定報告書2
▼P.47
史跡七戸城跡整備基本計画策定報告書3
▼P.48
史跡七戸城跡整備基本計画策定報告書4
▼P.49
史跡七戸城跡整備基本計画策定報告書5

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城の縄張り構造について
七戸城跡縄張りパース
▲七戸城跡縄張りパース
七戸城跡現況地形模型
▲七戸城跡現況地形模型
?中央虎口イメージパース
▲中央虎口イメージパース
?大手虎口イメージパース
▲大手虎口イメージパース
?貝ノ口側の虎口イメージパス
▲貝ノ口側の虎口イメージパース

1582年に青岩寺が「貝ノ口」に建立されたという根拠を見たい!

 ▼七戸町史
七戸町史表紙
▼P.20
七戸町史P.20
▼P.21
七戸町史P.21
▼P.380
七戸町史P.380
三 青岩寺  地図
 本寺については、『新撰陸奥国誌』に次のように記されている。
 青岩寺 境内六百七十五坪
      当町の中程より東に入る所にあり、竜泉山と号す。盛岡
      大泉寺
の末寺浄土宗なり、(1582年)天正十年壬午六
      月開山
、円良とのみ云と有て、南国の人と云うことを伝
      えず、当時旧螺口(貝ノ口?)と云所にありて、天正十年
      当初に移せりとも云い、(1839年)天保九年類焼して由
      来ならず。
      ※青森県文化財保護協会新撰陸奥国誌
▼P.381
七戸町史P.381
▼P.538
七戸町史刊行委員会
▼発行日:昭和57年(1982年)3月31日
七戸町史発行日

七戸城東門、「七戸町の見所のひとつの象徴」間違いなし!

 ▼七戸城東門の説明
七戸城東門の説明

 この場所に建立された「七戸城東門(しちのへじょうひがしもん)」は、文献史料に基づきこの場所に復元整備されました。

 復元整備の裾拠のひとつ七戸町に所在する青岩寺の過去帳に、天正十年(一五八二)まで「旧螺口(きらくち)」に、青岩寺があったということが記されており、「旧螺口」は、現在の「貝ノ口(かいのくち)」にあたるものと推側されること。

 もうひとつの根拠は、この場所は七戸城を守るという観点からみると、非常に弱い部分にあたり、この場所から簡単に城主が居た場所「北館曲輪(きただてくるわ)」に攻撃されやすく、そのようなことから寺院などの施設を設け、七戸城に侵入してくる敵を防ぐ役割も果たしていたと考えられる こと。

 以上のようを歴史的及び城の構造的な理由から、ここに門と塀の復元整備を行ないました。

門と塀の復元においては、江戸時代に参勤交代(さんきんこうたい)の街道に植えられていた奥州松並本(おうしゅうまつなみき)の松の木を利用しております、利用した松の材料は国道拡幅工事に伴い、やむなく伐採されたものを、歴史的建造物の復元に役立てたいということで国土文通省から払い下げをいただき、再利用しております。

 この「七戸城東門と塀」の復元整備にあたっては、財団法人東日本鉄道文化財団(本社東京)から「地方文化事業支援」として採択を受け、財政的なご支援を賜ることができました。

 今、ここに復元整備された「七戸城東門」は、未来に羽ばたく七戸町の見所のひとつの象徴としてここに建立されました。

 この城門をくぐり、進んでいくと七戸町の花である「つつじ」を愛でることができ、さらに進んでいくと「花菖蒲園(はなしょうぶえん)」を愛で、さらに花菖蒲園を進んで行くと、城主が居城していた「北館曲輪」へと行くことができます。

 多くの人たちが、この地を訪ね、古き七戸町の歴史と文代訃満喫lていただければ幸いです。

 

 平成二十年三月三十一日


        史跡七戸城跡総合整備活用推進実行委員会

七戸町史年表1

七戸町史年表2

七戸町史年表3

七戸町史年表4
▲1582年(天正10年)6月、円良実誉上人青岩寺を創建す。

七戸町史年表5

【私が興味関心を持ったこと】
 青岩寺の過去帳に記載されている内容
 史跡七戸城跡総合整備活用推進実行委員会のメンバー  
 この場所は七戸城を守るという観点からみると、非常に
  弱い部分にあたり、この場所から簡単に城主が居た場所
  「北館曲輪(きただてくるわ)」に攻撃されやすく、そ
  のようなことから寺院などの施設を設け、七戸城に侵入  
  してくる敵を防ぐ役割も果たしていたと考えられる』と
  の結論に到る議論の内容とその議論の基となる資料。

史跡七戸城跡ガイド地図紹介、ぜひ見学においで下さい!

 
史跡七戸城跡ガイド地図

七戸城東門案内板

北館曲輪整備復元想定図

史跡七戸城跡ガイド地図1

史跡七戸城跡ガイド地図2

史跡七戸城跡ガイド地図3

史跡七戸城跡ガイド地図4

史跡七戸城跡ガイド地図5

史跡七戸城跡ガイド地図6

史跡七戸城跡ガイド地図7

史跡七戸城跡ガイド地図8

史跡七戸城跡ガイド地図9

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